平成不況として「日本型経営」を軸に経済の発展と企業経営を考える。
→ 現在、終身雇用、年功序列は実質破たんしている。企業年金も国庫返上している(新規企業年金加入の中止)企業もある。
1990年代に入りバブル経済が破綻し日本企業の業績が長期にわたり低迷するようになると、冒頭に掲げた3つの論点評価は一変し、日本型経営システムはすべてダメだという状況に陥った。このような極端な評価のぶれや時流に流されることなく、グローバル経済の中で日本企業が勝ち残っていくためには、従来の日本型経営システムのどこを継承し、どこを変革していかなければならないかを冷静に見極める目を持つことが必要である。
—目次
■「収斂(しゅうれん)説」(convergence theory)
日本社会の近代化・産業化が進展すれば、日本型経営システムの特徴も次第に消滅し、やがては欧米型の経営システムに収斂していくと考えられる。収斂説は経済的・技術的合理性を強調する技術決定論を持つ。
■「非収斂(ひしゅうれん)説」(divergence theory)
日本社会の近代化や産業化、また経済のグローバリゼーションがいかに進行しようとも、日本の文化的・社会的特質が消滅してしまうことはあり得ませんから、日本型経営システムの特徴も存続すると考えられ、非収斂説は文化的要因を強調する文化決定論を持つ。
現実には、
・経営目的
・経営理念
・経営戦略
・経営組織
・経営制度
・慣行
などから構成される「経営システム」は、
政治的・経済的・社会的要因などから成る「環境要因」と、
人間観・人生観・労働観・会社観などの「基本的価値前提」の制約の下で、
基本的には経営者の戦略的選択により生み出される。
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森本三男(名古屋大学・経済学博士)は、
『企業社会責任の経営学的研究』白桃書房、1994年
『現代経営組織論』学文社、1998年、第2版・2001年、第3版・2006年
『日本的経営の生成・成熟・転換』学文社、1999年
日本型経営システムの成立・発展過程をこれら書物より次のように区分している。
①萌芽期
1935年〜1945年頃は「萌芽期」。
準戦時・戦時の国家主義的統制企業体制の下で「資本の論理」が封じ込められ、労資全員の協力による生産力増強が推進された結果、「企業は経営者を含めた従業員のもの」という会社観や労使協議制の芽が育まれた。
②模索期
1945年〜1950年頃は「模索期」。
敗戦による壊滅的打撃の中から経済復興を図るためにとられた傾斜生産方式や政府支援により、いわゆる「日本株式会社」といわれるような企業と政府・行政の緊密な関係がうまれ、メインバンク制の下地ができた。また、経済民主化の流れの中で行われた財閥解体、会社分割、経営者の公職追放などにより、株式所有の高度分散、所有と経営の分離、経営者支配の確立などが進行した。
③形成期
1950年〜1960年頃は「形成期」。
戦後の混乱期を脱した日本経済が順調に回復し、労働力不足の兆しが現れてくる中で、従来は大企業の基幹的従業員だけに見られた終身雇用制が、正規従業員全体や、中規模企業にも拡大・定着した。また、戦後の身分制度撤廃、民主化という流れの中で年功序列が定着し、労働運動も過激なイデオロギー的運動から次第に生活防衛的・雇用維持的な運動が主流になり、企業別組合が定着した。このようにして終身雇用、年功序列、企業別組合など日本型経営システムの中核的部分の原型がこの時期に形成された。
④充実期
1960年〜1970年頃は「充実期」。
池田内閣による所得倍増計画(1960)、貿易・資本の自由化などによ り日本経済は奇跡的な高度成長を遂げますが、急速な成長や国際化の進展により、近代的・合理的な経営システムの整備が必要になった。たとえば、常務会の設置に見られるような戦略的決定を担うトップマネジメント組織の整備、長期経営計画の策定、社長室や企画室などの新設に見られるようなゼネラル・スタッフの充実、計数的内部統制手法の導入、OAなど事務管理の機械化など。また、QC(Quality Control)、TQC(Total Quality Control)、ZD(Zero Defect)など、生産現場の小集団活動も活発に展開され、品質・価格面で競争力を持つ日本製造業の強さの基盤が形成された。
⑤成熟期
1970年〜1980年頃は「成熟期」。
ニクソン・ショック(1971)、2度にわたるオイル・ショック(1973, 1979)により日本経済は高度成長から安定成長・低成長の時代に入り、いわゆる「減量経営」の名の下に、選択定年制、管理職定年制、出向・転籍、転職支援制度、能力主義賃金などが実施され、従来の日本型経営システムに部分的修正が加えられた。また、ジャスト・イン・タイム、カンバン方式などにより徹底的に無駄を排除した「トヨタ生産方式」に代表される日本型生産システムが確立し、オイル・ショックを見事に乗り切った日本製造業の強さが世界から注目された。一方、日米通商摩擦が激化する中で、日本企業と政府の緊密な関係に批判が集中し、「日本株式会社論」が展開された。
⑥飽和期
1980年〜1990年頃は「飽和期」。
日本経済が絶頂期を迎える中で、欧米の経営者や研究者の関心は、日本企業の強さを生み出している日本型経営システムに向けられ、‘Japanese Management’の研究がブーム的様相を呈した。1985年9月のプラザ合意に始まる急激な円高の進行は、製造業の海外シフト、本格的なグローバル化を加速し、日本型経営システムの海外移植の可能性についての関心が高まつた。
⑦転換期
1990年以降は「転換期」。
バブル経済がはじけ長期化する平成不況の中で、従来の日本型経営システムの構造的欠陥が顕在化し、自信喪失に陥った日本企業は、「リストラ」の名の下に中高年者の大量整理を行ったり、年俸制に代表されるような貢献度に応じた報酬制度の導入、派遣社員・契約社員など非正規従業員の利用などを積極的に進めました。こうした中で新たな日本型経営システムの構築が模索された。
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■会社という組織
本来、目的志向的・機能的な仕事の組織であり、個人は契約により会社との関係に入り、契約で定められた仕事を担当し、貢献に応じた報酬を受け取り、会社との関係は極めて限定的である、というのが欧米的な会社観である。
これに対し、日本人にとって会社とは仕事の場であると同時に共同生活体的な存在であり、契約関係というよりは「所属」関係で結ばれて、全人格的に会社と一体化し、個人の繁栄は会社の成長とともにあるという運命共同体的な関係が強く意識され。
コーポレート・ガバナンスの観点からは、欧米人にとって「会社は株主のもの」であることは自明の事柄ですが、日本人にとっては「会社は経営者と従業員のもの」という意識が強く表れている。
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■考察:日本的経営
バブル経済崩壊後、1990年代に日本企業が行った大量の人員整理、出向・転籍などは、会社に対する人々の忠誠心や信頼感を大いに減退させる結果となり、個人と会社との運命共同体的な関係も崩壊しつつある。
転職に対する人々の心理的抵抗も小さくなり、組織に拘束されずに働くフロー型の就業タイプを選択する人々や、組織に所属しないで仕事をするフリーエージェント(業務請負、個人事業主含む)、インデペンデント・コントラクターのような働き方を選ぶ人々の割合も増えている。
またグローバル経済の中で、機関投資家や外国人投資家の発言力も強まり、経営者は株主価値を意識した経営を行わざるを得ない状況が生まれている。
以上